株式会社入河屋

 

入河屋130年の歩み

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奥浜名湖をのぞむ三ヶ日町で、明治十八年から菓子店をいとなむ入河屋(いりかわや)。地元・三ケ日産の素材をいかした気取らない和・洋菓子は、地域の人たちに世代をこえて愛され、創業130周年を迎えた。

入河屋130年の歩みの紹介

  • 明治十八年 初代「松嵜甚作」が三ヶ日にて創業

    魚問屋を営んでいた「松嵜甚作」(まつざき じんさく)は奥山方広寺の門前町や三ヶ日宿の料亭等に魚を卸していたが、とても人が良く面倒見が良かった為、お金を貸したり保証人を請け負ったりしていた。しかし、今度は自分自身がお金を回収できず貸し倒れ状態になってしまっていたところ、三ヶ日の方々からお声をかけていただき、地域を移り製菓「入河屋」を創業する事となる。
  • 「松嵜甚作」地域の方々と強い絆を作る(お庚申様)

    この時、三ヶ日においてお菓子屋は一件しかなかった事と、初代甚作は手先が器用で「甚作饅頭」を初め、結婚式や祝い事の引き出物(鶴や亀)の注文を行っていた事も相まって地域になくてはならない存在へなっていった。森永製菓の創業者も当時入河屋へ取引して欲しいと訪問されたとの事。
  • 二代目「松嵜先次郎」誕生

    二代目「松嵜先次郎」(まつざき さきじろう)は家業を一生懸命やっていたという話は伝わっていないが、地域の方々とは非常に付き合いが良く面倒見も良く評判が良かった。どちらかと言えば職人一筋というタイプではなく外交的・経営者的なタイプであった。
  • 戦時中を生き抜く入河屋

    太平洋戦争真っ只中個人個人への配給もほとんど行われなくなり、三ヶ日にある製菓を営む企業は営業ができなくなっていきました。それに危機感を感じ取った入河屋二代目「先次郎」は、地域の製菓企業をまとめ組合を立ち上げる事で製菓に必要な材料を確保に成功する。戦時中も生き抜いた二代目の心が今も引き継がれている。
  • 三代目「松嵜勉」誕生

    三代目「松嵜勉」(まつざき つとむ)は家業を手伝いながら学校に通い、学業も疎かにせずトップクラスの成績を取っていた為、特別表彰される事となる。その一方では、父である二代目からお菓子作りを学びながら入河屋を支えていた。
  • 出兵と三代目の想い

    三代目は根っからの職人気質でお酒もタバコもやらない真面目な性格だが、富士山に同級生と旅行に出かけるなど交友関係を大事にした。お菓子作りに没頭するも太平洋戦争に出兵する事となる。昭和二十年に終戦し日本に戻るも、とてもお菓子屋を始められる状況ではなく生計を立てる為銀行員へ。八年後の昭和二十八年四月に母が亡くなった事を受け、松嵜勉は入河屋へと戻り改めて入河屋を支える事になった。
  • 昭和二十九年 地元名物「みかん最中」誕生

    三代目「松嵜勉」は昭和二十八年に入河屋を再開させ、昭和二十九年に三ヶ日名物「みかん最中」を誕生させる。名産品としては「みかん」があるが、元々一年を通してできる地元名物が地域に無かった為、発売当初から今までのロングセラー商品となる。
  • 四代目「松嵜哲」誕生と洋菓子製造販売

    若き「松嵜哲」(まつざき あきら)は当時和菓子屋である家を継ぐ事を快く思っていなかった。しかし、親戚から頂いた”まるたや洋菓子店”のモンブランをはじめとしたケーキを食べ感動した事がきっかけとなり洋菓子へ興味を持つ。偶然は更に重なり、当時父である松嵜勉(まつざき つとむ)は「詩吟の会(しぎんのかい)」へ通っており、まるたやの当時のチーフ(秋田 純平氏)と交流があった。偶然が偶然を呼び「松嵜哲」は”まるたや” へ修行に出る事となる。昭和四十三年、修行を終え入河屋の四代目に就任した「松嵜哲」は。三ヶ日初となる洋菓子の製造と販売を同時展開する事となる。
  • W・P・ゴッツェ氏とのご縁

     昭和40年代、日本に洋菓子文化はほとんど広まっておらず、東京でさえ四・五店舗あるという程度だった。そんな中、地方にしては珍しく浜松にまるたや洋菓子店が存在していた。そのまるたや洋菓子店で修行していた松崎哲は、海外から来られる洋菓子の先生方と出会う事になり、その中の一人がW・P・ゴッツェ氏であったという。修行を終え入河屋へ戻った後も交流はあり、ゴッツェ氏が日本へ拠点を移した後は、定期的に入河屋へ訪れ洋菓子について色々な技術を伝承してくださったとの事。松崎善治郎(後の五代目)は学生時代の頃からゴッツェ氏から色々学び深い交流があった為、後にゴッツェ氏の下へ修行にいく事となる。
  • 三ケ日初洋菓子喫茶店「ケーキパーラー」開店

    四代目「松嵜哲」は修行時代お世話になった”まるたや洋菓子店の喫茶店”をイメージし、洋菓子製造開始三年後の昭和四十六年、洋菓子の普及も視野に入れ三ケ日初となるケーキを出す喫茶店として「ケーキパーラー」を開店させる。一定のお客様に喜ばれる反面、当時の喫茶店イメージがあまり良いものではなく苦労も耐えなかったとの事。
  • 自家製餡を開始・入河屋独自の「餡」が誕生

    松嵜善治郎(後の五代目)が高校生の頃、ある一つの転機が訪れる。それは、三ケ日にある製餡屋が廃業したことで、強制的に自家製餡へ切り替える必要がでてきた事でした。善治郎は幼少期から教え込まれた三代目・四代目の技術と経験で、見事入河屋独自の餡を作り上げる事に成功する。
  • 平成十六年 五代目「松崎善治郎」誕生

    常葉学園浜松大学(後の浜松大学)を卒業した善治郎は、今後の入河屋を思い、縁あった有限会社たねや(現在のたねやグループ)へ入社し和菓子・洋菓子についての修行へ出る。家の都合もあり沢山の事を学んだ職場 有限会社たねやを後にし、大学卒業から五年を経て五代目「松崎善治郎」が誕生した。

     
  • 入河屋五代目とW・P・ゴッツェ氏

    松崎善治郎とゴッツェ氏との出会いは、当時学生だった善治郎のもとへ技術指導として訪問してきた頃から始まり、ゴッツェ氏の奥さんが浜松出身だった事もあり、浜松へ来る度入河屋へ顔を出し定期的な交流を持たれていた。そんな中、ドイツのマイスター(称号)を持つゴッツェ氏は、クリスマスシーズンになると皇室からの注文も入る程忙しく、五代目も手伝いに駆けつける事もあった。クリスマスの時期になると入河屋ではドイツの伝統的なクリスマス菓子「シュトーレン」がお店に並ぶ。これは、ゴッツェ氏が五代目に技術を伝え、伝承されているものだと五代目は語る。
  • 浜松遠鉄百貨店へ出店

    会長(四代目)の良きご縁もあり平成十七年に浜松遠鉄百貨店へ出店する事となる。新しい事業展開へと舵をきった五代目は、無名の地浜松へ出店するという厳しさ・衛生環境の違い・競合店に囲まれる百貨店売り場に、悪戦苦闘する日々が続く。しかし、一つ一つ問題点を克服し新商品を開発し続けた入河屋は、一つのブランドを遠鉄百貨店に残す事となる。
  • 平成十九年六月 豊橋湊町店新規オープン

    豊橋から三ケ日までお客様が沢山買いに来てくださっていた事もあり、平成十九年六月に元々出店を予定していた愛知県豊橋市へ豊橋湊町店を新規オープンさせる事に成功する。バブル後退余波の影響も地方へ徐々に押し寄せ順風満帆とはいかなかったが、地域に愛されるお店となっている。
  • 平成二十八年 ベーカリー事業の立ち上げ

    とある勉強会で経営計画書を作成していた五代目「松崎善治郎」は、ふと新しい事業の立ち上げを意識するようになる。それがベーカリー事業だった。日頃から嗜好品のお菓子をお客様へ提供している「入河屋」だが、入河屋らしさを失わずお客様の生活にもっと寄り添った事業もできるのではないかと思いついた事が始まり。偶然にも一時ではあるが、四代目入河屋当時、パンの製造販売も行っていたという。

     
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